食について極める

『食について極める』典座経典を読んでこの言葉が心に残る。

生きることは食べること。何より大事な食が本当にめちゃくちゃになってきている今、すべてのことは食に通じている気がしてならない。病氣や精神状態は言うまでもないけれど、生き方や豊かさの基準までもが。

生きるために働いているはずが、働くために食を犠牲にし、生きることを犠牲にしている。目の前の問題から目をそらしているうちに、手軽で便利で簡単なことばかりが価値があるように思えてきて、気がつけばお金で時間を買うことだけが豊かさになっている。

そうして手に入れているもの、求めているものは何だろう。

やっとそういうことを考えられるようになってきた。いつも頑張らなきゃ、もっとやらなきゃ、もう少しうまくいったらその後には、そう思いながら肩肘張ってきたけど、本当のところ、それでは何の解決にも深みにもならないということがやっと腑に落ちて分かってきた。自分が求めているものが何なのか、それがやっと見えてきた。とても根本的で基本的で簡単なことだった。

私が悩んでいた生理痛や、肩こりや、偏頭痛や、脚の太さや、そういうものは食べ物と生活習慣を変えたら解決した。原因を知らないことが第一の原因だったのに、原因を知ることの大切さは誰も教えてくれなかったなぁ。大きなきっかけは、田舎暮らしと中医学だった。生理痛だから生理痛の「藥」を飲むのでは、何も解決しないということ。一時的にごまかしてなかったことにして抑え込んだものは、だけど問題として継続し続けるから、いつかもっと大きな問題となるということ。小さな痛みや、だるさや、イライラや、そういう不調をキャッチして目を向けていかないと、代償は大きく、それは命をも脅かしかねないということ。脚の太さでさえも、私の生活をさらによくして、快適に暮らす道へのひとつのきっかけだったということ。まだ改善途中だけど、意外とそれが楽しかったりするという驚き。

私にとって一番大切なことはなんだろう。よりよく生きるってなんだろう。

たくさんのお金があることは素敵なことかもしれない。でもそれで叶えられることは意外と少ないかもしれない。時間がたくさんあることは素敵なことかもしれない。でもその自由の中の不自由がどれだけの決断力と自制心を要求するかはあまり知られていない。経験したことしか人は本当に理解することはできない。では私はその意味を本当に理解しているだろうか。

私が本当に欲しいものはなんだろう。求めているものはなんだろう。お金や時間や美しい体のその先に、求めているものはなんだろう。私が本当に欲しいものはなんだろう。

『考える』ことで分かることはたくさんある。見えてくるものがたくさんあって、見えなくなるものがたくさんある。ガイドブックをなぞるように他人の考えをなぞる『考えたつもり』は、テレビや雑誌が上手に用意してくれるけれど、自分の真ん中から発せられる自分だけの答えを見出していく(自分の体験を経験に変えて自分の中庸を探る)『考える』は、私自身の試行錯誤からしか生まれない。人生には、今すぐ答えが出ないすっきりしないことがたくさん残る。解決しないまま続いていく、それを心の中に意識しながら、時々取り出してみたりしながら諦めないということは、悪くないなと思う。

食べることは毎日繰り返されることで、こんなに贅沢な時代になってもまだ、食の悩みは尽きない。飢えることなはないけれど、そのせいで多くの飢えを抱える贅沢な時代になったからこそ見えてくる中庸こそが、もしかしたら本当のところかもしれない。たくさん欲しいわけじゃない、ただ、本当に核心的なものとその周りの遊びを少々。それを探っていけるとしたら、うん、私の人生すごくいい人生かもしれない。

食について極める、それを強く意識して暮らす時、私があなたとどんな言葉を分かち合えるか、とても楽しみにはじめてみたい。初心を忘れず、変化を恐れず、偽善に惑わされることなく自分を真ん中において。

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