添加物や農薬にこだわると買うものがなくなる、という問題を解決する方法

食の話をしていると「こだわってますねぇ」と言われるようになった。すでに私の中でも周りでも、その程度のことはとっくに当たり前のことだったりするので、逆にびっくりする。「え、まだそれ食べてるの、使ってるの?」と。

そして、そういう人は必ずこういう「そんなにこだわってると食べられるものなくなる。」。あぁ、分かるわ、その気持ち。私も昔は言った言った、そのセリフ。私もそう思ってたし、買うものないやん!ってイライラしたこともあったから。でもやっとこの問題にケリがついた。

ところで「食の当たり前」も人それぞれ。話の前提として、私の昔と今を比較してみた。

  • 昔はあったけど今は決して使わない調理道具。アルミ鍋、テフロン加工のフライパン、電子レンジ、シリコン製品、100均のお皿。
  • 今は絶対に使わない調味料。サラダ油、キッコーマンやマルキン醤油、市販のドレッシング(はるか昔ピエトロが美味しいなんて言ってた頃もあった)、白砂糖、カマダのだし醤油、本ダシ、缶入りツナやトマト、学生時代はマーガリン使ってたこともあった、割りばし。
  • 小さいころからほとんど食べてないもの。冷凍食品、インスタントラーメン、お菓子、レトルト食品、マクドナルドなどのジャンクフード
  • 昔買い物していた場所。スーパー、カルディ、デパ地下。
  • 今買い物している場所。オーガニックショップ、畑で農家さんから直接、たまーにスーパー(しめじとか、ビールとか)
  • 今使っているもの。土鍋、ホーロー鍋、鉄のフライパン、鋳物の揚げ物鍋やソテーパン、自家製醤油(京都で作った)と天然醸造醤油(もちろんアルコールやアミノ酸、タンパク加水分解物なんか無添加)、自家製の味噌(麹は無農薬朝日米、大豆ももちろん国産無農薬)・梅干し・アンチョビ・塩麹・醤油麹、塩は各種天然海・岩塩、古式絞りの菜種油、低温圧搾のえごま油などなど、外食したらマイ箸。野菜は無農薬、肉は抗生物質なしの放し飼い。

 

振りかえってみると、大きく変わったなぁ。これが当たり前になっている人にとっては、それぐらい普通なんだけど、意識してない人にしたら、なんでコンビニの物とかスーパーの既製品とかダメなのか全然分かんない、っていうレベルだろうな。

私の場合、京都の古民家に暮らし始めて出逢った人はみんなこういうこだわった暮らしだった。そういう知識はほとんどなかったのに、いきなりトップクラスに囲まれた感じ。そうして添加物とか保存料とか原材料とかを知るほどに、いろいろと使うのが怖くなったのがスタート地点だった。「そんなに体に悪いなら使わずにいたい」というのが大きな理由だった。長生きしたいというより、せっかく生きてる間、気持ちよく生きたいという感じ。

恐怖からはじまった行動だから、いつも買い物時には「これは良くない(悪い)からやめておこう」と考える。これは悪いものだから避ける、というのはアメーバ的で本能的なことなんだろうけど、これまで自分が普通に食べてきた、好きだと思っていたものをあれもこれも否定することになったから、かなりストレスになった。

頭で悪いと分かっていても、すっかりだまされている脳には通用しない。脳はそれを食べた時の快楽(アミノ酸や砂糖や油の刺激)を求めて、また食べろ、と促す。なのに、脳の違うところでは、毒だぞやめとけ、と声がする。

そうして葛藤しながらでも、化学物質の多いものを実際に食べる回数が減っていくと、だんだんと欲しいと思う回数も減ってくる。久しぶりに食べた時には、「美味しい!」でも食べた後「あれ、なんか気持ち悪い」という感覚に気づくようになった。もしくは、次の日に顔がむくんでいたり、目覚めが悪かったりした。そういう負の経験が増えてくると、さすがに、知識だけでなく本能的な部分でも「これは良くないもの=毒物」という図式ができあがってくる。

とはいえ、やっぱり悪いものは欲しくなるもんだし、完璧を目指しているわけではないから、今でもレイズ(ポテトのチップス)やケーキやハーゲンダッツが欲しくなったら食べるようにしている。あっても数か月に1度、アイスは冷たすぎてますますめったに食べたくなならなくなったけど、禁止しているのではなくて、欲しくないから食べていないだけ、というのがすごく大事。そして食べたら体のポテンシャルががっくし落ちるのも感じている。

この数年の間に、てらきちさんと時々話したことは「食べ物に気をつけているけれど、本当に体はよくなっているのか」ということだった。

たとえば、今までめったに食べないとはいえ、たまには食べていたラーメンを食べたら気分が悪くなる。お菓子を食べたら舌がしびれる。発泡酒を飲んだらすぐ悪酔いする。それまでは大丈夫だったものが、だんだんとダメになっていく。「これって、体が強くなったというより、食べ物に気をつかいすぎて逆に体に耐性がなくなって弱くなってきてるんじゃあ?」ということを何度も感じた。だって、せっかく我慢してるのに、そのせいで調子悪くなるなんて損しかしてない気がして。

長い間(4,5年)その問いを抱えてきた。そして、買うものがなくなることに何度も苛立ちを覚えた。はじめのころは、あれもこれも買えないから食事を作るのも面倒になったと感じていた。

でも今になってついに分かったのは、「こだわると買うものがなくなる」のではなくて「そんな異常な食べ物もどきしか売っていない」という事実に驚くべきだということ。

こだわったらスーパーや一般店で買い物ができなくなる → だからこだわったら面倒くさいじゃなくて、ちゃんとしたもの売ってないこの今の状況がおかしいってことに気づいた日には、大げさなようだけど本当に目からうろこだった。おかしいのは、私じゃなくて日本の社会だったんだ!

きれいすぎて形がそろっていて山盛りにして売られている野菜は気持ち悪い。葉っぱものなのに虫の一つもかじってない上に、同じサイズなのは水耕栽培。水耕栽培って水に何混ぜてるのかな。袋に入ったまま何か月ももつお菓子は食べ物じゃない。明るいきれいな色のハムやソーセージは、なんで塩漬けなのにあんな色なのか、薬漬けで気持ち悪い。一口食べていきなり美味しいと思うものは、化学調味料のかたまり。店頭に並んで腐らないパン、卵が入っているのに昨日から常温のサンドイッチは食べ物じゃない。同じ味で日本中で、下手したら世界中で売られているものなんて、もとより「食べ物」じゃなかったんだ。

そういう本当の感覚を取り戻すことができて、今、本当に食のこだわりを捨てなくて良かったと思っている。食を通して、自分がいかに情報や環境に振り回されていたのか知った。その主導権を取り戻すこともできるということも知った。おかしなものを買わされ続けなくていいように、自ら選ぶことができるようになった。そのうち舌が肥え、おかしなものは舌が受け付けなくなった。脳と体がうまく協力して、同じ方向へと向かうようになった。

買うものがなくなるのは、今までの習慣から抜け出せていないから。これからの新しい自分に合った場所を探す必要がある。そこには、これまで知らなかった個性的でこだわりまくりで工夫上手な世界の人たちが住んでいて、化学調味料で整えられた無難でまずい味じゃない、複雑なうまみの野菜や豆腐や調味料がある。

食のこだわりに足を突っ込むと、今までおいしいと思っていたものが、ことごとく不味くなってしまうような、味覚の大革命がおこる。その過程で、今まで食べていたつまらないものが食べられなくなることを嘆くなんて、もったいないこと。つまらない未練はさっさと捨ててしまえばいい。たしかにこだわると、スーパーで、デパ地下で、普通の人が美味しいという店で、チェーン店で、買えるものも食べるものなくなる。でもその先に、今までの場所にいたら決して買うことも出合うこともなかった、本当に「美味しいもの」と「美味しさが分かる舌」が待っている。

 

 

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