「消毒」は「農薬」と同じこと。淡路島では無農薬野菜を日常的に買うのが難しい話

雨が続いている。

こんな日には、朝から近所の居心地のいいカフェでモーニングを食べて、野菜を買いに行く。

ところで意外なことに、無農薬にこだわっていたら淡路島で買い物をするのは難しい。(こだわり農家もいるが島外が主な顧客で、島内で無農薬野菜を集めて売っている場所がない。週二回の洲本のオーガニックマルシェと一部スーパーのほんの数種類ぐらい)。ある朝市で、無農薬の野菜はあるか聞くと、「どうせ無農薬と謳(うた)っても売れないからねぇ。作ってたけどやめたのよ」と、おばちゃんが教えてくれる。ある人は無農薬と表示して近所のスーパーの産直コーナーで販売していたら、周囲の農家から「自分だけ特別なことをして・・・」と言われたので表記をやめたとか。

今日も野菜を納品に来ていた農家のおばあちゃんに農薬使用の有無を聞いたら、なんとも歯切れ悪く「自分ところでも食べる用の野菜で、だから大丈夫よ。納品にあたって消毒の回数や時期もちゃんとノートに書いて報告しとるからね」との返事。いやいや、それは大丈夫ということには繫がらないんですよ。でも歯切れが悪いということは、農薬が嫌われ者という意識はあるみたい。

自然に近い人ほど、自然の仕組みを理解していない、ということは多い。「この農薬は2週間で効果が切れるから大丈夫」「農薬は使ってない。消毒だけ」特に、農協(JA)に卸すなら農協の規定通りの農薬や除草剤を「使っていないと」まともな値がつかないから、農薬も肥料も使うのが当たり前になっている。田舎の人の除草剤のまき方、農薬の散布の仕方を見ていると、まるで庭に水をやっているみたいに気楽で、日常化していることがよく分かる。

土に入った農薬が「消える」ことなんてありえないし、虫が死ぬようなものを土にまいて、それを食べることが「大丈夫」なわけがない。微生物も虫も死に、生態系はまったく変わってしまうし、同じ野菜をびっしりと植えた場所に、また次の作物が育つのは肥料を足したからで、栄養過多になった土は、ジャンクフードを食べては吐いて動けないほど太った人と同じように、簡単に病気になるだろう。検査して基準値を下回ってる、というがその基準値はだれがどんな基準で決めたのか知っているだろうか。しかも日本の農薬使用量の多さや認可されている農薬の基準値のゆるさは、世界トップレベルだ。たっぷりの農薬と、すでにヨーロッパやアメリカで禁止されている危険な農薬が普通に使われているということだ。私は、「基準値」やら「普通」やらといった、自分で納得がいかないことは信じないことにしている。

「消毒」は「農薬」と同じことだ。なのに、農薬をまくといえば響きは悪いが、消毒するといえばいいことをしている気にさえなりかねない。その言葉を甘んじて受け入れることで、思考を止めて、意識をにごらせてしまう。

私たちも、引っ越してきて間もない5月、朝の7時に家に訪ねて来た巡回庭師に、ついうっかり松の「消毒」を頼んでしまった。松は消毒しないと枯れる、という思い込みがあり、家の立派な松を「枯らすわけにはいかない」という欲があり、しかも朝7時のふいうちという状況で、つい「お願いします」となった。その場ですぐ消毒薬という名の農薬が散布され、ものの数分で庭師は帰っていった。犬は雨が1,2回降るまでは庭にださないようがいいよ、と言われた。

翌日、大量のダンゴムシが松の下で死んでいて、それから何日もそんな状態が続いた。数日で大雨が降り、また雨が降り、それでもやっぱりダンゴムシが死んでいた。師匠(シーフー)を庭で遊ばせてあげることがなかなかできず、2回の雨の後、様子を見ながら庭に出したけれど気が気じゃなかった。そして気がついた。「これは本当にやってはいけないことだ」ということに。一般的に松の消毒という名の農薬散布は、年に数回。だから、今まで毎年行われてきたものをいきなりやめると枯れるかもしれないから、せめて回数を少しずつ減らしていけたら、とは思っていた。だけど、やってみて、目の当たりにして、こんなに命が消えていく「消毒」というものの異常さをはっきり意識した。

立派な松を庭においときたいという自分の欲のために、たくさんの虫が死んで、安心して庭に立てなくなって、そんなのはおかしい。少なくとも私には、その選択は間違いだ。

その後、新しく知り合った素敵な庭師にその話をすると、「松の消毒はいらないんですよ。してもしなくても、枯れるときは枯れますから」と教えられた。松くい虫が入るときは、農薬をまいても入るらしい。あぁ、人間のワクチンと同じだなと思った。しても意味がない、どころか、大切な体の(土の)力が失われて戻るのに大変な力必要になり、そのすきに本当に病気になったりする。さらに当たり前だけど、失われたものすべてが完璧に戻ることなんてないだろう。でもみんながやっていること、やるべきだと言っていることをやったら、問題を棚上げできるし責任を果たした感じになれて、なんだかとっても気休めになる。だから、とりあえずやっておこう。その代償はとても大きい。自分では払いきれないほどに。

南あわじでは、びっしりと並んだ玉ねぎの収穫後、すぐにその畑を耕し、水を張り、稲を植え、畑はあっというまに水田へと変わる。玉ねぎは連作障害をふせぐために、塩素で土を消毒したりするらしい。その土で育った米を食べたいとは思わない。もちろん、玉ねぎも。

この話は、農家も一生懸命やっているとか、買う人がいるからそんな経済の仕組みになっているとか、いいとか悪いとか誰に責任があるとか、そういうことじゃない。自分はどう感じるか、そしてどう選ぶか、間違いながら、妥協しながら、そして自分の最善を模索しながら、暮らしをとおして考える、そうして今自分がどうするのか、この感覚がとても大事なことだと思う。

といいながら私は、まだ引っ越したばかりのこの淡路島では、無農薬にこだわっていると買う野菜がないことを最近実感した。自然栽培の野菜ボックスも送ってもらったけど、予想外の楽しみもある代わりに、その時の自分に必要なものもそろわない。目で見て手に取って買う楽しみもない。コープ自然派の無農薬野菜も納得がいかなかったし、自分で選んでいないものはやはり好きじゃない。でもこれでは買えるものがなくなって毎日がつまらないから、無農薬だけにこだわるのは少しお休みしようと考えている。できるだけ不細工な野菜を産直で選んで買いながら、聞き込みを続けて私たちにとって最善を模索し続けたい。信頼できるいい野菜との出逢いを楽しみに。

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